「住民が主人公の自治体を創る 私の提案」
社団法人 大阪自治体問題研究所 設立25周年記念 懸賞エッセイ 入選作

はしがき                          重森 曉
優秀作:綿づくりの中で考えた泉州の地域産業         木村 元広
佳作 :住民が主人公のまちづくりは近木川ルネッサンスから  橋本 夏次
奨励賞:地域住民組織が取り組んだ在宅介護          斉藤 百合子
奨励賞:堺市学校給食民間委託の闘い             永田 政子
奨励賞:21世紀に向け子どもたちが健やかに育つまち富田林を 増永 みさえ
奨励賞:生涯学習は市民が主役で、学校の空き教室で      松岡 昌彦

大阪自治体問題研究所第26回定期総会終了後の表彰式

大阪自治体問題研究所
第26回定期総会終了後の
表彰式

「住民が主人公の自治体を創る 〜私の提案」
社団法人 大阪自治体問題研究所 設立25周年記念/懸賞エッセイ
1999年6月19日初版発行
編集発行:(社)大阪自治体問題研究所 (非売品)から転載

 

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はしがき

 大阪自治体問題研究所は、昨年、25周年をむかえました。それを記念してさまざまな事業が行われましたが、この懸賞エッセーの募集「住民が主人公の自治体を創るー私の提案」もその一つです。

 「各分野、各地域で行われている住民が主人公のまちづくり、自治体づくりの営みについて自由にレポートして下さい」という呼びかけに対して、実に25人もの方々が応じて下さいました。このこと自体、大阪府下における地方自治運動の広がり、わが研究所とそれらの運動との接点の深まりを示すものだと思います。

 エッセーの内容は、住環境、保健・医療、高齢者福祉、保育・教育、社会教育、ジェンダー、地域経済、自然環境、情報公開、住民参加、市政改革など多岐にわたっています。

 共通していることは、個人的体験だけではなく、なんらかの運動や組織的なとりくみがベースになっていることです。書き手の方々は、自治体労働者であったり、生活協同組合の担い手であったり、地域福祉のボランティアであったり、環境保護運動のリーダーであったり、さまざまですが、それぞれの立場から自治体労働者と地域住民との連携・共同の重要性が説かれているのが印象的でした。また、レポートの多くは、それぞれの運動や組織の紹介にとどまらず、その運動と自分とのかかわり、自分の生きがいや自己実現とのつながり、運動を進める中での心情などを細やかに書いてくれています。また、住民自治の発展や地域における生きがいの発見にむけて、これからどのような視点が必要か、どのような政策や運動が求められているかについて、示唆に富む提言が数多くみられました。

 それぞれ優れた内容のものばかりだったので、かなりむずかしい審査となりました。評価の基準は、もちろんそこに描かれている運動やとりくみに優劣をつけるといったことではなく、そうした運動の実像がどれだけよく描かれているか、その運動と自分自身とのかかわりがどれだけ深くほりさげられているか、「住民が主人公の自治体づくり」という視点からどのような新しい視点や提言がうちだされているかなどです。

 どうしても、なんらかの「賞」を差し上げたいと審査員が思う作品が6つ残され、その中から木村元広氏の「綿づくりの中で考えた泉州の地域産業」が優秀作に選ばれました。地域産業の振興という重要なテーマが、江戸時代の泉州地域の歴史や文化をふまえて論じられており、また「きしわたの会」というユニークなとりくみを通じて展開されているという点で、審査員の高い評価を得ました。

 佳作に選ばれた橋本夏次氏の「住民が主人公のまちづくりは近木川ルネッサンスから」は、自然保護の運動を通して、行政マンと住民とがともに現場で汗をかき、本音で熱い対話をかわすことのたいせつさを説いたもので、審査員の共感を呼びました。

 奨励賞の4点は、いずれも地域におけるとりくみと自分の生きがいとのかかわりが描かれており、感動的なものばかりです。斎藤百合子さんの「地域住民組織が取り組んだ在宅介護」は、「資本金はない、無報酬、手弁当で先が何も見えない、誰が文字通りゼロからの出発を担って行けるか、『結いの会』の土台となっているのはボランティアの心だけである」という、地域活動を担う人々の不安と心意気がよく伝わってくるものでした。永田政子さんの「堺市学校給食民間委託の闘い」は、O−157事件以後の学校給食攻撃の中で、調理員の方々がどのように苦悩してきたか、その苦悩の中からいかに立ち上がり、勇気をもって市民の中に入り、対話を続けてきたかを描いています。

 増永みさえさんの「21世紀にむけて子どもたちが健やかに育つまち富田林を」は、「3人の子供を育て保母として働き続け、住みつづけてきた富田林の街が大好きです」という冒頭の一節が示すように、地域への愛着と、子育て運動にかけた情熱がみごとに溶け合った作品でした。松岡昌彦氏の「生涯学習は市民が主役で、学校の空き教室で」は、これからさらに進む高齢化社会の中で、参加者が主役となる生涯学習の場をつくることがたいせつであり、「空き教室を生涯学習の場として活用することで、新しい家族形態『地域家族』というようなものが生まれる」という積極的提言をしています。
以上が、受賞の対象となった作品ですが、これ以外の作品もそれぞれ優れたものでした。そこで、今回は全作品を収録したエッセー集をつくることにしました。応募していただいた方々にあらためて心から御礼申し上げる次第です。

 今回、このような懸賞エッセーの募集をしてみて、あらためて、地方自治にかかわって力強く生きておられる人々の多さ、多様さ、書き手の多彩さを実感しました。またいつの日か、このような取り組みが行われることを期待したいと思います。

1999年6月
大阪自治体問題研究所25周年記念事業
懸賞エッセー審査委員会 代表
重森 曉


 

綿づくりの中で考えた泉州の地域産業

木村 元広

はじめに

 最近、米沢藩の上杉鷹山など江戸時代の藩政改革ものが行政改革論議と合わせて注目を浴びている。それらを読むと、単に倹約して藩財政を建て直すのではなく、様々な形で産業振興に取組む姿も描かれていて、なかなかおもしろい。

 司馬遼太郎氏は「この国のかたち」という著書の中で、「価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性化を生むと思われるのに、逆の均一性への方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ」を嘆き、「こんにちの私どもを生んだ母胎は戦後社会ではなく、ひょっとすると江戸時代ではないか、と考えてみればどうだろう」「(江戸期の)多様さが明治の統一期の内部的な豊富さと活力を生んだと言える」と述べている。私自身、この説に大変興味をもった。

 これからの地域社会の振興を考えるとき、それぞれの地域の個性を生かした多様性こそが求められるのではないか。「江戸時代に戻れ」などヤボなことを言うつもりはないが、江戸時代の社会から学ぶことも多いのではないかという気がする。とりわけ、江戸時代の後期に各藩が自主的に取組んだ産業振興策は注目される。

 「産業振興は国の行政課題。自治体では困難だ」と、いつまでも責任逃れの言い訳ばかりするのではなく、江戸時代の藩主になった気分で各自治体が思い切った産業振興施策に挑戦し始めてもいい時期ではないだろうか。

1、自治体の産業振興とまちづくり

 自治体にとって、地域活性化の本来の目的は、地域住民が生き生きと生活し、地域に誇りをもって生活できること、住民が暮らしやすい地域を形成することである。経済的に豊かであることと住み良い地域であることとは同じではない。製造出荷額などの経済統計数値を引き上げることが目的ではない。(例えば、東洋経済社が毎年発表している『住みよい都市ランキング』や経済企画庁の発表している豊かさ指標でも、県民所得などが下位の地域も選ばれている。)単に景気が回復すれば良いと言うことではないはずだ。

 豊かな自然と地域文化、歴史と伝統、充実した福祉、働きやすい労働環境など本当に豊かな地域をつくるためにこそ、自治体は産業振興に取組むのではないだろうか。その意味で、地域経済振興施策は地域のまちづくりをどう進めるのか、という問題と密接にかかわっている。

 自治体の産業振興施策は、狭い意味の商工業振興策だけでなく、農林漁業、労働、観光、福祉、文化、教育、環境、都市計画、消費生活、女性施策などの各行政分野の総合的な行政施策として位置付ける必要があるだろう。

 現在でも、そうした観点で地域の中を見渡せば、地域産業にかかわりのある様々な財産や市民の運動・取組みがあるはずである。大切なのは、もう1度地域の諸資源を見つめ直すこと、そこに現代的な視点で新たな光を与えることではないだろうか。それこそが、個性的な地域振興に通じる道である。

2、江戸時代の泉州地域

 かつて和泉の国(泉州地域)は、摂津・河内と並んで日本有数の綿作地帯だった。すでに江戸時代には木綿の栽培が高度に広がり、その前提は戦国時代にまでさかのぼると言われている。 木綿はそれまでの麻などでは得られなかった肌ざわり、保温性の良さで急速に広がり、庶民の生活様式を大きく変えた。それだけでなく、木綿は“自給経済から商品経済へ”日本の経済社会を大きく転換させる役割を果たした。

 農民は木綿を植えて実綿を売るだけでなく、糸を紡ぎ織布まで手掛けるようになる。ますます綿は商品作物としての性格を強めて広がり、染料としての「藍業」の発展も促した。また、綿の収穫量を高めるために農民は肥料を多投し、魚肥の干鰯(ほしか)も大型商品に成長させた。それに伴って漁業はさらに盛んになった。

 農業、漁業、そして海運業の発達で廻船問屋も台頭。同時に、陸路も人馬の往来、物資輸送が盛んになった。海岸沿いに紀州街道が整備され、発展した。このような産業の急成長に伴い、海岸部への人口の移動、村や町の成立、農民層の分解、工場制手工業が始まり、やがて明治に至るや泉州紡績地帯の形成へと進むのである。

 まさに、木綿は泉州地域経済を発展させただけでなく幕藩経済体制そのものを根底で掘り崩していく役割を果たした。

 泉州地域の繊維産業の発展は、明治の産業革命を進める原動力にもなった。木綿の栽培は、機械化の進展、関税の撤廃による外国産の原綿の輸入などによって明治20年代ころから急速に消滅していくが、繊維産業はその後様々な試練を経ながらも発展し、現在にまで引き継がれてきた。
その繊維産業が今、危機的な状況にある。しかし、「それは時代の流れだ」「業種転換を図るしかない」と冷たい視線をおくる市民、そして行政幹部も少なくない。その他の伝統的な産業も同じようにして見捨てられてきたのではないか。「だめになったら取り替える」ということを繰り返していていいのだろうか。その思いが私の「綿づくり」へのこだわりになっている。

3、綿づくりで夢を育てる「きしわたの会」

 1996年4月「綿づくりで夢を育ててみませんか」という呼びかけで「きしわたの会」(岸和田の綿の会)が誕生した。「地場産業を原点から見つめ直したい」「自分たちで育てた綿で糸を紡ぎ、織物をしたい」「まちづくりや観光にも生かせれば」「農作業を楽しみたい」など会員の思いは様々。みんなで綿の栽培に取組みながら、お互いに学び合い、夢を育て合う市民組織である。

 会は、岸和田市の神於山の土地改良区内の畑(約1500?)を借り、月2回くらいの作業日を設けて楽しみながら木綿を栽培している。耕作や草引きなど農作業は思ったより大変だったが、花が咲いたとき、コットンボールがはじけて白い綿の実を吹き出したとき、そのたび毎に会員は新たな感動を味わった。

 幸い、市の農林水産課がこの取組みを活用して同地でコットンカーニバルを開催してくれた。きしわたの会は、綿繰り、糸紡ぎ、機織り、藍染めの実演・体験コーナーを設置。苦労して作った綿の木もラッピングして販売した。大変好評で用意したものは売り切れた。

 カーニバルは恒例行事になった。翌年はテレビで「会」の活動が紹介され、全国から多くの人が訪れて大盛況。3年目は市の環境保全課も神於山の自然を守る観点から、リース作り教室で参加するなど年々広がりを見せている。

 そして、会の要望が実り、市の施設の一部を会の作業場として貸していただけるようになった(98年5月)。同年12月には市の労働会館の主催で「紀州街道と木綿」と題する文化セミナーが開かれた。貴重な文化と歴史が今なお息づく紀州街道が木綿の栽培・地域経済と深くかかわって発展した街道であることを学んだ。岸和田女性会議のサークル「お針子サロン」は「古い着物を新しい感覚で蘇らせたい」と、自分たちで再生した服でファッションショウを実演。岸和田市漁協は、この日のために「ほしか」を作ってくれた。きしわたの会も文化セミナーに協賛して、作業場で綿繰り、糸紡ぎなどの実演や会員の作品展示、綿の木やリースなどの販売を行った。

 当初思っていた以上に発展してきた「会」の活動だが、それが繊維産業や地域経済の振興、まちづくりに、実際どのような影響を与えられるのか、と尋ねられれば「今はわかりません。でも、夢だけは抱き続けたい」と答えるしかない。

4、泉州の地域経済の課題

 岸和田市の市制施行記念で発行された「岸和田発達史」を読んでいると、岸和田岡部藩は「農民の学問を有害無益視してこれを欲求する百姓に対してはいたいたしい睨みを加えたものである」と書かれていた。江戸時代でも積極的に学問を奨励した藩もあったのに、これは何ということだ。私は、何だかこの時期の施策が現在まで影響を及ぼしているのではないか、という気さえした。

 残念ながら泉州地域は、明治以降の繊維産業にしても紡糸や綿布など原料生産が主であり、戦後も素材生産型・量産型が主流であった。商品企画・デザイン・販路開拓などは大阪の商社・問屋に依存し、指示された枠内でできるだけ安く良い製品を作るために各社が競い合ってきた。だから、本来の意味の産地としての機能も十分育たなかった。

 独自の企画・デザイン力を地域の中で育ててこなかったことが、繊維産業にとどまらず泉州全般の新たな発展を阻んでいる1つの要因ではないかと思う。

 言うのは簡単だが、克服する方策はまだ思い浮かばない。結局、それを担う人々をどう育てるかということであり、そのような人材を育てることができる地域づくりをどのように進めるのか、が課題になるのだろう。

 「くらしと地方自治をまもる岸和田市民会議」は、「市民参加で産業振興ビジョンを策定」することを市に申し入れた。ぜひとも、多くの市民の中でこれらの問題を率直に議論し合えれば、と思っている。

(岸和田市職員労働組合)

<講評>
 地域産業の振興を歴史の教訓のなかから学ぼうとする姿勢と、自治体の産業振興をまちづくりと連携して考えるという筆者の考え方に、大いに共感させられる。筆者が述べるように、産業振興は従来は国の課題であったが、近年は自治体の役割に注目が集まりだしており、そうした時期に綿づくりの実践を通じた地域産業振興の試みは、大いに評価されるところであろう。最後に筆者の提案する市民参加による産業振興ビジョンの策定は、大いに期待されるところである。

(樫原正澄 関西大学教授)


 

住民が主人公のまちづくりは近木川ルネッサンスから

橋本 夏次

 住民の立場での住みよい街とは、またそのまちづくりを進めるためには物質的な豊かさから“心の豊かさ”への市民意識の転換が必要である。このことはいろんな所で言われるようになってからかなりの年月を経た。

 しかし、実態は何も変化していない。大量消費が生み出した“物質的な豊かさ”から脱皮の兆しが見えてこない。義務を考えない権利の主張、自己中心的な公平・平等の理解、これらも阻害要因の1つで、加えて「心の豊かさ」に必要な原体験がないからである。

 “アマゾンの原住民ヤマノミ族の長老が言う。文明人は直線的に生きている。だから異文化を受け入れられないで争いが起こる。ヤマノミ族は、自然の循環の中で生きている。輪の中で生きているから異文化を容易に受け入れることができるのだ”という。レイチェルカーソン氏が“自然の変化に敏感な子”というのも同じことではないか?

 幼児期に身近な自然を五感で体感する原体験は、豊かな人間形成のため最も基本的なことで、まちづくりに必要な郷土愛もその中で育まれる。

 先人が旬の味を大切にし自然の恵みに感謝しながら生きて来た。しかし、西洋文明がもたらした効率主義によってより効率主義になり市民自らが心の豊かさをも消してしまったことを反省すべきではないだろうか?

“真のまちづくりは郷土愛から”  自然を破壊し続けるまちづくりは、いずれ破滅する。そのスピードをゆるめないと。

貝塚市の住民参加

 貝塚市の住民参加のはじまりは昭和50年に事業化された二色の浜環境整備事業である。計画段階から町会・婦人会など10数団体の長で推進協議会を組織し、意見反映を試みたことは内外で高く評価され、今も大筋ではこの手法が続けられている。

これからの住民参加

 代表者で構成する住民参加はともすれば“ええかっこ”をするため、本音の話が聞こえてこないことが多い。総論賛成各論反対がそのよい例である。これからは、住民の本音の話を聞くことが大事で、現場で住民と会話することをこまめにすればそこにまちづくりのキーワードがある。それを引き出すことだ。そのために行政マンの意識改革が必要だ。

 横浜市で“水辺の楽校”を見学させてもらったことがある。入所3年目の下水道局の担当者は、「地元での会合には欠かさず出席しています。大変なことですけれど勉強になることが多いです。」そこで私は質問した。「あなたは、100%の完成を目指していませんね?」「そうです。7割ぐらいを目標にしています。後の3割は、住民の力で仕上げてもらいます。」と言っていた。(この3割の中は、管理という住民の汗をかく活動も含まれている。)参考になる言葉である。各種団体からの要望を受け入れる住民参加はともすればサイレントマジョリティが消されてしまうからである。

 先進都市では、住民の考え方も“要望する(くれない族)”から“行動するに”に変化している。谷津干潟の保存活動を続けている習志野市議会議員の森田三郎さんは、国に言ってもダメ、県や市に言ってもダメ、結局自ら動くしかないと16年間干潟の清掃活動を続けた。そこで学んだことが多いと言っている。自分のために行動したと言っている。

 結果、谷津干潟は残された。現場を見て現状を体で理解し、学ぶ、行動する、経験を積む。これが、大事なことだ。まず地域の気候風土・文化を知り、先人の知恵に学び、何を大切にすべきか(わたしの場合自然)地域での十分な会話を経た後、まちづくりの話へと発展させることが望ましいと考えている。

「デスクワークの1級建築士より現場で鍛えた2級建築士の方が心の通った家を建てる。家のリサイクルを進めている大工は言う。古い家を解体しているときその木組みから先人のメッセージが聞こえてくる。100年経った木は100年以上長持ちさせないと「木様」に申し訳ないと言っていたという。」

必要な行政マンの意識の改革

 行政マンは、市民のためにやってやるということから住民と共に汗をかいて奉仕する意識が必要。責任転嫁とタテ割り行政をなくすこと。

(1)情報の収集

 新聞報道など情報がいっぱい。氾濫している情報に惑わされることもあるが気をつけてみれば役に立つことが一杯。平成5年10月にオープンした自然遊学館の時は、小学1、2年生の社会・理科が生活科に変わり自然が題材になることを知った。また、神戸のUCCコーヒー館の諸岡館長が言われた「見学時間は10〜30分程度いい。ヨーロッパや日本のように財宝誇示型の博物館ではなく、知的要求不満の残らない、休憩もできる社会教育型の博物館を目標に」ということが非常に参考になった。

 地域に根差した“まちの小さな博物館”、会話が聞こえる、市民の息遣いで大きくなる博物館、出会い・感動・余韻をコンセプトにだれもが自由に出入りでき(無料)、自然を遊びながら学ぶ館が自然遊学館である。年間10万人近い来館者がある。職員に行政経験者はいない、人・自然が好きな人達で管理運営しているから温もりのある館と評価されている。

(2)現場での会話を大切に

 私は、平成元年地元貝・高校園芸科の力を借りて“花いっぱい運動”を始めた。高校生が育てた花の苗を市民が管理するので、市販の花と違って大事にしなければとの意識で全市的な広がりを見せた。「花と語らいを」がキャッチフレーズ。移植作業など現場には必ず出掛け「ありがとう」「よろしくお願いします。」貝・高生や市民と会話を交わした。

 「課長さん。夜寝られへんで。あの見事な葉ボタン取られたら貝・高生に申し訳ないから。夜、物音するたびに気掛かりで」と言った市民の言葉が今でも脳裏に残る。

情報は足で稼いで体で覚えること。まちづくりは現場をよく見て学び市民との会話からキーワードを見つけること。

(3)正しい情報を

 上流でホタルの里を作れと要望する人がいた。正式の会議ではこの意見がとおる可能性が高い。私は、その場所にはゲンジボタルやヘイケボタルやヒメボタルもいます。現場を見て下さいと申し上げた。その方は、現場を見てすばらしい所やなと言ってきた。 それから、近木川の清掃活動にも参加してくれた。現場をよく知り市民に正しい事を理解してもらう事も大切。

行政マンは演出家。黒子役に徹し市民が主役。情報の収集と市民の力を結集すること。

近木川ルネッサンスで真のまちづくりを

 ハウステンボスを設計した池田武邦氏(日本設計相談役名誉会長)は生命を培う環境をつくること。人間以外の生き物が集まってくる街をつくらなければならないと話し、理想の都市像に“江戸”を挙げる。江戸は水系の元に人が集まる街づくりがされており川が生きていた。江戸はゼロエミッション都市であった。昔はすべてが循環の中の一つのプロセスだった。自然は全部循環している、と語っていた。江戸時代へタイムスリップすることができないが、学ぶことはできる。近木川には歴史がありコミュニティがあると作家小松左京先生はおっしゃった。

近木川を知り学ぶ → そこから住民が望むまちづくり

 近木川には、人・生き物を育む水脈がある。国の天然記念物ブナ林のある和泉葛城山に源があり、約18?で河口の二色の浜に流れる。社寺や城跡などの歴史的遺産もある。

 近木川に学ぶことが多い。そのためには、川と目線を合わすことが大事。きたない、危険と橋の上から見下していては、ゴミをほったりすることを防ぐことはできない。近木川で遊んだり、調査・観察をしたり、ときには清掃活動もすることでいろんなことが分かる。時には、お年寄りに聞いたりして暮らしの歴史を学ぶ。水循環はため池や水路網などを調査し、汚れの原因を探る。そこには、自然浄化・自浄作用など生き物との関わりなどいろんな教材がある。川が育んできた人とのかかわりは、自然の恵みに感謝しながらも洪水がもたらす被害で敵視してきたこともが多いのではなかったか。しかし、川で泳いだとか魚を捕ったとかの幼少時代の原体験は、年老いても忘れることはない。近木川で遊ぶ子ども達と体験者との会話が弾むこと。そういう“場”づくりが必要である。

 流域の人たちが手をつなぎ近木川の水循環システムを構築すれば、近木川はよみがえり暮らしが豊かになる。自然破壊を止めることが出来ないかもしれないが、そのスピードをゆるめることは出来る。自然環境は有限である。自然の怒りが、温暖化、酸性雨、エルニーニョ現象などに現れている。1人の力ではどうしようもも出来ないが、仲間を増やすことが出来る。仲間が手をつなぎ近木川の復活を図ることができれば素晴らしいまちづくりが可能になる。貝・では、近木川の水質が全国ワースト1になったことで近木っ子探検隊・近木っ子会議・近木川フォーラム等の活動が始まり、その兆しが見えてきた。今後も、10%の我慢と1%のボランティア活動を呼びかけ、近木川はすばらしい川ですよと言い続けていきたい。

行政マンと住民とが現場で汗をかき、会話で熱い闘いを!!

(貝塚市)

<講評>
 筆者は、「心の豊かさ」にはそのための原体験が必要であり、乳児期の自然への原体験は豊かな人間形成のための基本的必要事項であり、そこから郷土愛が生まれると、説いている。貝塚市における住民参加の事例として、二色の浜環境整備事業を挙げている。行政マンの意識改革の必要性を指摘し、現場から学び、行動する経験を積むことの大切さを述べている。最後に近木川の水循環システム構築に向けての住民の望むまちづくりを提唱しており、注目される提案である。

(樫原正澄 関西大学教授)


 

地域住民組織が取り組んだ在宅介護

斉藤 百合子

 神奈川県に住む67歳の女性が、止むに止まれぬ気持ちから福祉活動に入り、老人ホームを取材して1冊の本を出版しその後、大阪堺市に住むようになりホームヘルプサービスを手がけることになった経緯と現状について述べることゝとする。

 県内老人ホームの情報を集めようと動き出したのは、94年6月、それから1カ月以上旧友の間を飛び廻った。

 老人ホームに入所を望む高齢者の多さ、在宅の現状、福祉情報の少なさを訴えたのだが、旧友たちは唯聞く人でしかなかった。

 元、教師だったり、幼な友達、ローカル新聞の編集長だった友人、進学塾の経営者の先輩、大手銀行のOLもして、今は何の不自由もなく暇をもて余している旧友、元、従軍看護婦だった人、旧満州から引き揚げ、某繊維メーカーの社長秘書をしていた気丈な友人にも1冊の本を作るための労力を出し合おうと相談をもちかけたのである。

 情報だけ集めれば、後は編集、体力に自信のもてるのは、今しかない、明日では遅い、旧友達は全員消極的であった。

 あきらめ切れないまゝ、それから3カ月後、秋に入ってから、68歳で退職した元公務員と2人、1年がかりで、県内の老人ホーム147カ所を電車、バスを乗り継ぎ、文字通り、足で纏めて1冊を仕上げた。

 ガイドブック「老人ホームのドアをノックする」であった。一部は公立図書館、関係施設に寄付したが、新聞等で報道されたこともあって他は、またゝく間に手許から消えた。

 本書の出版を含め、福祉活動に専念するようになったのも、以前から近所に住む老夫婦の悲惨な生活を見ていたからである。

 1986年、国民医療推進対策本部の中間報告は、入院患者は早期退院させられ、老人病院か、在宅療養かを選ばなければならなかった。寝たきりの人も家族からたらい廻しにされている状態を、中間報告は判るはずがなかった。

 大阪府堺市、耳原総合病院医療スタッフも、その問題につきシンポを組み、懇談を重ね、勉強会を何度も行なった結果、市民の手による特養ホーム建設運動へと発展した、にもかゝわらず、その後、度重なる汚職、不正事件など耳を被いたくなることが増大、福祉拡大をかゝえた国や、自治体は唯、沈黙してしまって、市民運動など見て見ぬ振りするより他なかったのであろう。

 地域の人々と共に署名、基金活動を通じて結びあう「結いの会」が結成されたのは、1996年5月である。

 そういう中で、会員が自宅を開放してくれたので、そこを拠点とし昼食会や配食サービスの場を提供され、堺市の一角にボランティアの手によって福祉エリアを作りあげていた。そのころ在宅サービスも会では、無償ボランティアでと考えていて、後記のような有償ボランティアなどの実態は考えられなかった。

 介護は、継続的に利用者の生活全般を支える業務である。

 他のサービスと違いその日その時をもって終了しないから、他のサービスと並行して受け持つことは期待できない。

 政府が福祉先進国の、制度を研究中の情報が刻々と活動家の耳に伝わり、新聞等も介護保険を取り上げ始め、地域では早くも波風が立とうとしていた矢先、当会では、即に21世紀を見据え、高齢者、低所得者、弱者についての論議が始まっていた。

 介護保険をふまえて、いまこゝでホームヘルプサービスを当会としてのやり方で、無償ボランティアの中に加えることは無理という見方になる。そこで考えられることは、中高年健常者のマンパワーは、大きな社会資源であることに注目し、まずその生活現況を大まかに分析してみた。

 団塊の世代を中心とすれば、子息、子女の高校、大学の入試、住宅ローン、夫の定年退職、リストラのムチ等、不安定な世代である。また、主婦層は就職といっても、パソコンやワープロはそれ程出来ない世代、事務職は難しい、皿洗いやレジ係は低賃金、高賃金は、ホステスしかない、主婦の特性を活かし、仕事というにふさわしい生き甲斐もほしい。

 4、50歳代は、特に高齢の両親をかゝえた世代でもある。中には特技をもった主婦がいて、共働きが何年かつづき、男性並みの社会的地位が得られた女性は、自分が続いて外へ出て働くためには、介護は専門者の手を借りたい等々、多くの女性、特に主婦の座は、今、最大のピンチに見まわれている。

 ちなみに、現在当会の会員は、2000名、60歳代、70歳代である、その世代は健常者は少ない、何らかの思わぬ故障で病院や医師を訪ねる人は、その果てに入院、退院後の静養や、家事労働は困難である。

 清掃、洗濯、買い物、入浴、衣類の脱着、食事、外出、通院なども他人の手を借りなければ出来ない。それらの内に入る高齢者はますます増える傾向にある。単に、会員間を見回した限りでは、サービス提供者よりも、被提供者の数が多いように思われる。そこで前記、一般主婦のマンパワーを、行政が活用しようとしているように、当会としても高齢者の生き甲斐にもつながる、働き場所が必要であった。

 会員の現況を土台に、地域全般を見据えての検討は更に7カ月を要して、いたずらに議論を重ねていると、有償、無償を中心に前向きが後ろ向きに変わったり、マイナス面ばかりを強調したりで、よしとしながらも、前進しないのであった。

 「誰か、例え、失敗しても、後始末までする気の人はいないか」これは大変重要なことであり、大きなポイントであった。

 資本金はない、無報酬、手弁当で先が何も見えない、誰が文字通りゼロからの出発を担って行けるか、「結いの会」の土台となっているのはボランティアの心だけである。

 会員の中のどれだけの人が今までの経験の何を、どれだけ焼くに建てられるのか、身を結ぶには、いくつかの困難を乗り越えなければならない。

 この地域の現状をよく知り、決断力、指導性と、まとめ役としての事務能力や、適応性、それに人間性である。

 一般的に、自主ボランティア組織といえば、自らの能力を生かせるところとするイメージがあるが、高齢者の組織では、現実、全体が受身であり、遠慮などもある。

 スタートに立って何かを組み立てるためは、自身と勇気があり、若さと決断力が要る。

 会員の中に96年10月、神奈川から堺市に転住してきた前記、本の著者がいた。珍しい行動派の彼女の提案はこうであった。

 従来の他のサービス活動から切り離して、サービスの利用者から応分の利用料を払ってもらい、その代償としてのサービスを提供しようとの提案で、それには論議を尽くした。

 自治体のサービスは週2回に限られ、1回が2時間、利用者は365日助っ人が必要であるが、その欠落している部分のサービスは民力が必要である。

 自治体のヘルパーは、殆ど非常勤で、働きたい意志を登録しても、全員が活動できる場が殆どない、限られた時間帯だけの利用で、限られた時間だけ提供する形で、かろうじて在宅介護が出来あがっている。

 研修後の再教育もないので、急に勤務が廻ってきても、業務としてこなす自信がない人もいる。

 そこで、当会の様なボランティア精神で発足し、会の理念をそのまゝ在宅ヘルプサービスに持ち込むことができ、病院、診療所等に勤務の、やる気のある医療スタッフによる講師陣をもつ組織はあまりない。民間ならでは出来ない、きめ細かいヘルパーの育成も構想の中に組み入れて、利用者のニーズに応えられる仕組みにしたいというのである。

 それから6カ月後、月1回の入浴、昼食会、週2回の配食サービスと切り離して、ホームヘルプサービスを提供できる事務所の準備も出来た。

 本来、在宅介護は24時間体制の中で市の首長の責任で行なわれなければならないことは、条文をあげるまでもなく、等しく承知しているところであるが、自分達の老後を、住み慣れた町で、安心して暮らそうと思うばかりに、特養ホームを作ろうとか、入浴、昼食会、配食等、無報酬、手弁当でやる必要があるのか、その発想は評価に価しても、自治体に提議し、実行させることこそ重要と考えなければならないと思うものの。

 繰り返しになるが、人の手を借りなければ生活出来ない高齢者は、昨年の市の報告では65才以上の人口は、10万4千人、全人口の13パーセント、平成12年には11万人、要介護者は15パーセントに達するという。

 地域の高齢者達がどのようにして日々を過ごしているか、その悲惨さ、みじめさ、それを知っているのは、そこに住む家族と、隣り近所、よく言って現場の福祉行政担当者として家族に泣きつかれた人たちだけではないだろうか。ひとりひとりによって違う生活レベル、介助、介護、家々の事情、住居、高齢者が満足いくようにするのにも、介護保険が十分なるものにするにも、相当の日時が必要と思われる。

 長年、市民と共に親しく育て上げてきた民主医療機関病院の有志や職員らが、何とかここまで自力で活動してきたことに心から敬意を表したい。

 ホームヘルプサービスが実際に行なわれるようになった過程をのべる。

 無償のボランティアによるサービスに対して有償によるポランティアの提唱については元来、有償などというボランティアはある筈がないけれども現実は、ヘルプこそ、利用者の生活を丸ごとかゝえ、ときには命を預かる職域でもある。

 ヘルプの民間参入は、その辺で福祉を食い物になどと言われる。

 それを云々するならば、会員に寄る相互扶助で、謝礼という形で、最低の利用料を協力者に支払う仕組みの有償ボランティアである。

 最終的には入会金3,000円、月々の会費300円にした。

 始めの3人の女性はヘルパーとして働きたい60代、後は、利用する時があるかも知れないと入会してくれた男性3人、その他。3カ月で45,000円の発足資金が出来た。

 手作りの広告や、チラシを見て利用を申し込み、会員になる人も日をおうにつれ増して来た。

 その年の6月総会の資料には、少額ながら右肩上がりのグラフによる報告をすることができた。

 管理面は手間暇をかけないことも必要であったが、先ず、管理事務に馴れることからはじまった。

 5人の報酬は、1日ひとり300円から始まり、今は、総額で、一般のパート標準額、弱の10万円なら1人月2万円である。

 利用料1時間700円の中から、10パーセントの維持費が戻入され、いろいろな形で、ヘルパーや、利用者に還元することにした。

 また、700円の利用料も払えない生活保護者の為の基金も貯えている。

 今年は利用者宅を、サンタクロースが訪問し、ささやかなプレゼントを手渡したり、事務所にはモールを張り、電灯を飾ってクリスマスを盛り上げることも出来た。

 これからの課題はヘルパーの資質の向上である。

 昨年3月、三級養成講習で40名、続いて本年2月、二級のヘルパー27名が誕生した。

 講習は、大阪府で承認されたカリキュラムで決められた時間数の講義と、特定施設で実技を学んだが、専門職として独り立ちしようとする新しい女性よりも、家族介護の為や、ペーパーヘルパーもいるので、何人養成したからといっても利用者の需要には追いつけない。

 終了者の言葉によると、他の機関などの学習内容と比較して、当会の講習は高水準と言われているとか。

 利用者のニーズもこれからは高くなり、より高レベルの介護が要求されると思う。

 利用者としては、利用料は安いにこしたことはないが、安かろう悪かろうにならぬよう利用者の声も聞きながら検討する必要もある。

 ヘルプの日常勤務の状況をよりよく知るため、個々の勤務日報、利用者のアセスメントケア計画など利用者の利用状況を関係者によって点検出来るようにしている。

 一方では、国の福祉計画が種々取り沙汰される中、その地域や組織でオリジナリティな福祉のあり方として、介護保険の対象にならないかも知れない利用者の為の、料金を定めてもよいと思う。

 「結いの会」の在宅介護事業の誕生は、まさに難産であったし、その育成も、初めて我が子を産み、育てる母親になった人のように経験しながら積み重ね、改善しながら盛り上げていく、楽しみでもあるが、今もまだ苦労の連続である。

 一つの仕事を進める上で、その推進力になる人材の確保は絶対必要である。

 ボランティアといっても、推進力になる人材は少ないけれども、その人の自発性を引き出す魅力的な会の理念があれば、高齢となって、その人間性を発揮できるのではないか。中、高年の新職種として開発された面もあるホームヘルパーは勿論、中期高齢期の人々によって運営されている当会に所属する人も、人生終焉の日まで働きたい人々である。

 ヘルパーの身分が自治体によって保障され、その管理部分が、当会のような民間参入組織にその間ゝ委託される方法も考えられると思う。

 以上、人材の活用を通して地域福祉の更なる充実を計ってきた当会の、活動についても述べたが、高齢になったら金や物から開放され、住み慣れた町で安心して暮らせる社会を切に望む次第である。

(堺市城山台)

<講評>
 地域高齢者福祉の問題についてホームヘルプサービスの取り組みを事例として、感動的に描いている。「『結いの会』の土台となっているのはボランティアの心だけである」と、筆者は指摘しており、自主的ボランティア組織をまとめる困難性を直視している。そのような苦労のなかでの「結いの会」の在宅介護事業誕生について紹介しており、大いに参考になる事例である。高齢者介護における中高年健常者のマンパワー活用のあり方について問題提起をしており、勉強になる。

(樫原正澄 関西大学教授)


 

堺市学校給食民間委託の闘い

永田 政子

 つい最近、福島県熱塩加納村の農家から朝届けられた、とれとれの野菜をたっぷり使った学校給食の記事が朝日新聞にのった。「この野菜、うちの畑のだ」という見出しで、おかずをおいしそうにパクついている学校給食の記事である。

 全国で吹き荒れている合理化、リストラの嵐の中でこんな町もあるのかと、町政の学校給食に対する姿勢、考え方に対して尊敬の念をもつと共に、うらやましい限りである。

 なんて幸せな子どもたちだろうと思う。この子どもたちのために、町の大人たちが丹精こめて作物をつくり、新鮮なみずみずしい野菜やてづくりのト−フ、みそ、しょうゆで育てるのである。

 わが子に食べさせる野菜だから、ほとんど無農薬にしているという。その野菜を栄養士や調理員が、くふうした献立や味つけで腕をふるっているに違いない。「きょうもおいしかった」と調理員に声をかけ、校庭にかけていく子どもの姿がすべてを語っている。

 給食をとおしてこの町のおとながみんな、子どもたちのことを大切に思い、子ども中心に考え働いてくれていることを実感し、多くの人の愛を身体に感じて育つことで子どもたちの心をどんなに豊かにしているかを考えると、これが教育でなくてなんだろうと思わせられる。教室の黒板の前で、栄養素や食材の流通について教えるだけが、食教育といえるだろうか。

 わたしたち堺市の給食も、これほどの理想的な給食は望めないにしても、一括購入方式を廃止し、自校調達方式に切り替え、産直の野菜やくだもので無農薬・減農薬のものを使用したいと願い、肉やト−フも冷凍のものでなく、近所の商店から届けてもらえる安全な食材を使った給食をとこれまで運動を重ね努力してきた。

 一括購入は崩せないまでも、本物の味をめざした手作りの味へとレベルアップしてきていたことも事実である。

 このような矢先にO−157食中毒事件が起こった。

 子どもの喜ぶ顔は調理員の働く原動力、子どもの成長は調理員の誇りであり喜びである。

 子どものうれしい顔が調理員にひと工夫もふた工夫もさせてきた。しかし、O−157は子どもを傷つけ苦しめた。3人の女の子を死に至らしめ、数日のうちに堺市内で6000名を超える発症者が発表された。人々は病院に殺到しフロアまでマットを敷き、点滴を受ける人があふれ、すさまじい光景があらゆる病院でみられたという。

 自分たちが作った給食での大惨事。O−157が調理場を通っていったというこの事実が、ことばでは表せない大きな衝撃と悲しみで、すべての調理員を打ちのめしていた。

 その気持ちに更に追い打ちをかける日々の報道。まさに悪夢のような毎日が続いた。

 堺市に設けられた「学童集団下痢症対策本部」は、報告書の中で「原因を特定できず」とし、「各校の調理ミスだけでは、今回のような堺市47校区での食中毒の発生は考え難い」と発表した。同時に、一括購入・統一献立と設備の改善についても指摘した。

 保護者の中に、「冷蔵庫もなかったなんて、自分たちはあまりにも学校給食に対して無関心すぎた」と反省し、学習会を開くグル−プが多く出て、出席の依頼がきた。

 この時期、親の前に出ていくことは、針のむしろのつらい試練だった。特に発症した子どもを持つ親に会うのは、その場で消えてしまいたい気持ちである。

 最初は、「調理員に責任はない」という世論もだんだん調理員が「しっかりやっていなかったから」に変わっていき、中には「調理員に一言謝ってもらわなければ気がすまない」と集会に来ている人もいた。

 集会の始まりは、身の置きどころのないものであったが、涙ながらに話をしているうちに、集会の終わりには必ずわかってもらえるので、やはりこうした集会には出席しなければならないと思わせられた。

 O−157から1年を迎える頃から、調理員に新たな問題が生じていることを感じた。それは、「PTSD」と専門家が言う「精神的外傷後ストレス症候群」「災害後遺症」と言われる症状がでてきたことである。

 仕事中のけがが増え病休者もめだった。通勤中の自転車や単車のけが、事故もあった。調理上の単純ミスもでてきた。

 「1年ほどして、すこし落ち着いた頃けがや事故などが起こる。ミスは出ると思っていなければいけない」と聞かされていたが、専門家から見れば「絵に書いたように」その事が起こっているということだった。回復は個人差があるがふつうで3年かかるという。

 しかし、この事は教育委員会はもとより、調理員自らも認めてはいなかった。

 そんな中で、異物混入などの報道が教育委員会の情報提供により、容赦なく過大報道され、調理員パッシングは徹底していた。82項目の堺市独自マニュアルは調理員に問題ありと言わんばかりであり「ただの1校でも食中毒が起こったら、たとえどんな軽い菌でも給食は全校中止とする。再会の見通しはない」と言い渡されていた。

 しかし、ピリピリと神経をとがらせ「2度とあんな思いはしたくない」と必死で働いているのにミスは出る。そして報道。議会では「調理員は仕事がきらいなのだ。民間はきっちりやるし良く働く。早く民間委託を実施せよ」とせめたて、一部の地域コミニテイ紙は毎週のように「調理員は給料が高い、税金のむだ使いだ。共同調理場にして監視を強くしろ。今の給食場ではヒソを入れられてもわからない」などと屈辱的な記事を書き立てた。 こうした記事を一定の地域の住民は毎週目にするのである。調理員をみる見方が変わってくるのは当然といえば当然かもしれない。

 調理員がこうした状況におかれている中で、平成10年10月、堺市教育委員会は学校給食の民間委託方針を打ち出したのである。「O−157の教訓で学校給食を民間委託」の記事が読売新聞に一面トップ、各紙にも載った。

 この望み薄い、えたいの知れない大きな闘いを「闘えるか・・?闘えないのでは・・?とても闘えない」正直そんな思いがかけめぐり、不安もあった。

 教育委員会にとっては、いまが絶好のチャンス。外堀は埋められ千載一遇の好機とはこのことである。

 市は、固い意志と決断をもって手段を選ばず、4月からの民間委託を実施しようとしていることが伺えた。

 O−157直後に始まった、公的機関である学校給食検討委員会を事実上打ち切り、「法律も度外視し、給食のいるいらないから考えるあり方そのものを問う」として有識者による懇話会を教育長の私的諮問機関として始めた。

 この懇話会のまとめは、「教育的観点から、学校給食は必要であることはもちろんのこと、大きな意義を持つと一部の委員は主張したが、議会の主張を強化し裏ずける以上に業者第一主義の信じられないような、学校給食の将来像に変質させられた。

 堺市の学校給食の歴史は、一部民間委託から完全直営へ、センタ−方式から自校直営方式へと常に前進してきた経過がある。今後は、完全自校調達方式に切り換えることが求められている。

 こうした流れに逆行する共同調理方式や食品加工工場などの建設までも提案されていたのである。議会のバックアップと、思惑どおりの提言をまとめさせた懇話会の力強い味方を得て、平成10年10月学校給食の民間委託方針を打ち出した。

 どう闘うべきか・・。すでに民間委託の導入された大阪八尾市から講師を呼んでの学習会を開き、また「堺・子どもの給食をよくする会」メンバ−、教組、市職労、調理員で、東京へも視察に行き闘いの教訓を得ようとした。

 2度目に視察した目黒区は、民間委託が決定されていたのに4月実施を見送らせたというのだ。ここで得たことは大きかった。調理員が親のところに出かけていって話し合うことから運動が始まったと聞き、やはりと納得する反面、内心堺市の調理員がおかれている立場でそれをするとなると、どうにも気が重かった。

 市民の中に入って行くことは闘いの基本であることはだれもが周知のことであるが、現実には、一番むずかしいことのように思える。

 不安な中にも「堺・子どもの給食をよくする会」とともに早速行動開始。市職労も全体のとりくみとしての位置ずけを強化し、ビラの全戸配布、各駅頭宣伝、ス−パ−前宣伝、宣伝カ−、スポットなどをくり返しPTA役員や子ども会、自治会役員への資料発送や訪問を行った。

 特にPTA役員訪問では、1日で約100人が集まり、91校中72校99名の役員に会うことができ、残りも後日訪問した。この時から、大きく流れが変わっていった。

 市が開いた保護者説明会では、PTAからの疑問、不安の的を得た質問が続き、教育委員会は答えられないまま、時間ぎれで閉会となったが、教育委員会幹部の「給食は事業、具体的方針は我々が決める」との発言に多くの人が憤慨した。

 はからずも後で傍聴していたが、この時堺の保護者の良識ある発言に感動していた。
この後、「よくする会」メンバ−はPTAや、市民の中から学習会や、説明会の要請、資料請求が増え、集会にも出掛けていくことが多くなった。

 PTAの中で、中学校区ごとの「連絡会」や「考える会」などがあちこちで結成されていった。

 最初は、2〜3人、4〜5人のお母さんたちとの話し合いから始まった。わずかなつながりで、たった1人のお母さんを訪問したこともあったが、そのような人たちが広がりをつくり、集まる人も増え学習会が開かれた。

 また「よくする会」事務局のメンバ−もさまざまな集会に対応することで超過密なスケジュ−ルになっていた。

 PTAの動きはますます広がり、学校独自の「考える会」やびら作りなどがとりくまれていった。また教育委員会が開かれるたびに、傍聴者も増え、「4月実施は拙速」との声が高まっていた。「ちゃんとわかる説明をしてほしい」「民間委託になったらどうなるのか」というのが保護者の気持ちである。

 教育委員会や議会へ要請書や陳情書が届けられていたが、教育委員会の強行姿勢は変わらなかった。

 民間委託は現場の者から見ると不安なことがいっぱいあった。ひとつの職場で1人も残らず全員が入れ替わって仕事がスム−ズにいくとは考えられない。教育委員会が宣伝している「よりよい給食」の内容は実際には矛盾することが多かった。

 そうした内容をできるだけ早く広く知らせることが責務ということで、現在3枚目のびらにとりかかっている。いつも市民感情にかみあうのかどうかが中心になる。

 労働組合も机をたたいて当局を詰めることだけでは物事の解決にはならない。市民の目線で見る事と、市民の良識を信頼する事を今回学んだ。どれだけ市民と共同できるか。

 子どもたちのためにおとなとして何をするべきか。一致できるのはこの点である。

 堺市は、平成10年11月に民間委託方針を決定してから、具体的作業を猛スピ−ドで進めている。

 「あの堺市がやるのだから、ウチでもできないはずがない」と他市の委託推進議員を元気づけてしまったと、問い合わせも多い。全国に悪い見本となってしまったが、PTAの中に大きく広がっていった共同の運動は、大きな財産といえる。そして、あきらめず、たゆまず、根気よく、短気をおこさずやることが大事であることを学んだ。

 まだまだ果てしなく続く闘い。結果はどうあれ確信をもって悔いのない闘いができるようにしたいものだと思う。

<講評>
 堺市の学校給食民間委託反対の闘いの事実経過を丁寧に要約しており、保護者・PTAとの協力・協同の望ましいあり方について考えさせられる。堺のO-157食中毒事件による給食調理員の受けた大きな衝撃とその悲しみをリアルに描いており、それに追い打ちをかける堺市教育委員会の学校給食民間委託方針は、まさに働く者の尊厳を奪い、子どもたちと地域住民の要求に背を向けるものといえよう。今後の地域協同運動の成果に期待したい。

(樫原正澄 関西大学教授)


 

21世紀に向け子どもたちが健やかに育つまち富田林を

増永 みさえ

 私は富田林に住んで30年近くになります。3人の子供を育て保母として働き続け、住み続けて来た富田林の街が大好きです。今後富田林が本当に住みやすく子どもたちがすこやかに育つ街になるよう、自治体労働者として、一住民として頑張って行きたいと思っています。

 24年前、第1子を生み、働き続けようと保育所探しをしたらゼロ歳から預かってくれる保育園がありませんでした。人づてに聞いて行った所が共同保育所、貧しい施設でしたが、暖かい保母さんと元気でたくましく生活している子どもたちをみて、預けることに決め、働きつづけたのですが、経済的負担が本当に大変でした。職場に行けば常に物品販売、日曜日はバザ−、保育料も当時3万円と高く、会議も多くとにかく経済的負担が多く婦人が働き続けることがどんなに大変かしみじみ感じました。しかし「貧しいながらも楽しいわが家」、すくすく育つ子どもに励まされ、ゼロ歳からの集団保育の意義も確信することができました。

 当時の富田林の保育行政は公立保育園が6園ありましたが、産休明け保育は同和保育所でしか実施しておらず、乳児保育は民間の保育園と共同保育所でしかおこなわれていませんでした。給食も羽曳野給食からのお弁当でした。

 親たちからは、保育行政の充実をもとめる声がたかまっていました。そのような親たちの力によって1975年革新市長が誕生し、1980年には、「すべての子どもに0歳からの一貫した保育を」「すべての子どもが明るく健康に」「地域に根ざした保育運動を」をスロ−ガンに富田林保育運動連絡会が再建されました。

 80年代からは臨調行革の中でしたが住民運動の高揚で0歳産休明け保育の実現、自家給食の実現、長時間保育の実現、保育園の施設の改善、保育労働者の労働条件の改善など粘り強い運動によって現在の保育水準を確立することができました。

 長年の保育運動が街づくり運動に発展し、1990年には、寺内町の町並にふさわしい白壁の富田林保育園が建て替えられ、全国的にも評価され全国からの問い合わせや見学がありました。 富田林では、80年代後半から金剛東地域を中心に住宅開発が進み、若年層が多く転居して、人口が急増してきた大阪府下でも数少ない市です。それに伴い「保育所に入りたいが保育所に入れない」の声が高まり、住民とともに金剛東地域に公立保育所を建設する運動が実り、1993年に90名定員の金剛東保育園が建設され公立保育園が7園、私立保育園が4園、共同保育所が2カ所、となりました。しかし、保育園に入れない子どもたちは年々増えて、97年10月で211名にもなり、そのうち0、1、2歳が153名で特に乳児保育の切実さがだされています。

 幼稚園は公立幼稚園が13園、私立幼稚園が6園、であるが公立幼稚園で定員われが著しい状況で親からは3歳児からの入園を求める声も高まっています。

 学童保育は市内全小学校区に空き教室・校内プレハブの施設を利用して16学童クラブが開設されているが、施設の充実や障害児の入所、マンモス学童などが問題になっています。私たちは1995年に子どもの権利要求実現市民実行委員会を結成し、富田林のすべての子どもたちの権利が保障され、豊かで健やかに成長・発達と幸せをはかれるように、子育て・まちづくり運動をすすめています。

 国は児童福祉法を改定し規制緩和と営利主義の導入をねらい、大阪府は大阪府保育推進計画を策定し、自治体に強行しょうとしています。核家族、少子化の中で育児不安から虐待や児童の凶悪事件が社会問題になっている状況や子どもを取り巻く情勢が変化したなかで、富田林の子どもの実態をあきらかにしながら、保育園だけでなく、幼稚園や学童保育所の実態や今後の在り方、子育て支援の在り方、障害児の療育・保育の在り方など、子どもの権利を守りより豊かに育てるための総合的な政策づくりを住民とともに進めることになりました。

 保育・子育て総合政策を作成するにあたって、子どもの視点と親の視点、及び自治体の果たす役割を重視して取り組んできました。

 まず始めに市民の保育・子育ての現状を把握するため、3つの実態調査(アンケート)をとりくみました。(1)子育て・保育要求についてのアンケート、(2)学童保育をより充実するためのアンケート、(3)安心とゆとりの子育てを考えるためのアンケートです。

 5つの部会にわけて現状分析と問題点、提言としてまとめました。

1)子育てと仕事の両立を豊かにの章では、保育制度の充実として、入所用件の拡大や情報公開、現施設での入所定数の拡大(乳児枠の拡大)、長時間保育(7時〜7時)の実施、同和保育園の一般開放、安心して預けられる保育料(3万円)の在り方、病児あけ保育の実施、給食の充実などの提言となっています。

2)学童保育の充実促進のためにの章では、学童保育の制度化(条例の制定)、障害児が安心して預けられる施設の改善と人員配置、指導員の正職員化、マンモス化の解消(1クラス35程度とし複数学級)、などとなっています。

3)地域の子育て支援を豊かにの章では、子育ての支援センタ−づくりで地域の子育てネットワークの中心的機能を果たすために、支援担当者の交流や養成、子育て相談、子育て支援活動をコウディネートし施設・機関の相互の連携を図るものである。

4)障害児の保健・療育・保育の連携と充実のためにの章では、総合的な通園施設の設立として障害児の療育・訓練・保育に継続性、安定性、連携性を確保、情報の提供、かつ障害児を持つ家庭の援助をおこなうことのできる施設であること。

5)幼稚園の実態の章では、3才児保育の実施、保育時間の延長、空き教室を利用した子育て支援の活動、障害児保育の充実、1学級30人、職員配置の改善などとなっています。

 “21世紀に向け子どもたちがすこやかに育つまち富田林を”にまとめました。約1年の作業になりましたが保育者と父母及び学童保育の父母、指導員が意見交換できたことと、実態調査や現状分析をするにあたり多くの職員や父母、市民の協力があり、職員の意識が高まってきたことは評価できることだとおもいます。現状分析の論議のなかでは、行政の縦割りの問題点などもおおくだされていました。

 今後保育労働者と父母と指導員が共同の力を発揮し、市民とともに提言の実現にむけて努力して行き、子どもたちの笑顔が輝く街にしたいとおもいます。

<講評>
 富田林市における筆者の体験を踏まえて、保育問題をリアルに感動的に表現している。その運動のなかでの子育ての総合的政策づくりを丁寧に紹介しており、今後の課題が簡明に整理されている。筆者は、結びとして、保育労働者と父母・指導員の協同の力による市民要求としての保育・子育て総合政策の実現を提起しており、そこに子どもたちの笑顔が輝くまちを展望している。子どもたちへの大きな愛情が感じられる文章である。

(樫原正澄 関西大学教授)


 

生涯学習は市民が主役で、学校の空き教室で

松岡 昌彦

 「いつでも、どこでも、だれでも、自分が学びたいことが学べる」生涯学習が提唱されたのが1965年。

 その時から34年。生涯学習の言葉は市民権を得、方々の地方自治体で生涯学習推進計画が練られ、生涯学習センターが建てられ、さまざまな事業がおこなわれている。

 わが寝屋川市でも、1994年、おそまきながら生涯学習推進本部が設置され、推進計画が策定されたが、計画の達成は2006年という。さすがお役所仕事、気の長い話である。計画が達成された時、わたしは一体?才になつているのだろう、と思うと寒気がする。

 それはさておき、4年前、わたしはネクタイをはずした。

 潔くよく現役に訣別したといえば恰好いいが、65才まで窓際で日向ぼっこしながら机にしがみついている先輩諸氏の後ろ姿に、わが身をなぞらえておぞましい気分に襲われたからだ。セネカはいう。「人生は短いのではなく、われわれがそれを短くしている。人生は使い方を知れば長い」と。そう思ったら、肩の力が抜けて気分が爽快になった。それから自分探しの旅に出た。

 吹田市山田に大阪府立老人総合センターがある。大阪府地域福祉推進財団主催のシルバーアドバイザー養成講座の受講生になった。160人の受講生は老男老女ばかり。シルバーというのだから当然であるが、高齢社会を目のあたりにして、いささかショック。市民大学、OO講座、カルチャー教室、OO講習会など、形の上では、生涯学習はいま花ざかりである。そのいくつかに参加してみた。会場、教室はどこも女性と老人(それも老女)ばかりで、男の姿は稀である。日本経済の牽引車であった企業戦士はどこに?梯子をはずされ、戸惑った果てに粗大ゴミ、産業廃棄物に変身したのだろか。そんなことはない、そんなはずがない、と否定するものの現実にはどこにも…。

  人生80年時代。現役引退後の余暇時間は10万時間といわれる。《24時間―10時間(生活必需時間)=14時間×365日=5,110時間×20年=102,200時間》これは現役時代の労働時間に匹敵して余りある。「余暇」が「余暇」でなくなったのだ。この長い時間を健康で、心を充実させ、イキイキしたものにしてこそ長命が祝福される。しかし、現実は寝たきり、介護、痴呆、孤独、生き甲斐喪失など様々な問題が前途に立ち塞がっている。国は2十1世紀を福祉の時代と位置づけて介護保険に養護施設にと躍起になっているが、後に続く寝たきり、痴呆予備群の波に追いつけそうもない。生涯学習が花ざかりなのは、寝たきりにならず、ボケもせず、孤独にも苛まれず、健康でイキイキした後半生を送るための予防薬だからである。たが、この予防薬、なかなか効き目がなさそう。飲んでいるのは、女性と老人(それも老女)が大半。男の飲める薬、それも若い時から飲める予防薬がないからかもしれない。

 わたし自身、いくつかの薬を飲んでみて気がついた。味がない、あっても苦い(魅力がない、充たされないない)味がする。もちろん、万人に効く薬がないのは当然で、体質によってこの人に効いても、あの人には効かないというのもしかりである。

 行政主導型の市民大学やOO講座といった生涯学習プログラムに魅力がないのは、その多くが講師と受講生、先生と生徒、教える側と教わる側の「垂直思考」にある。参加者が受身で生き甲斐の構築につながっていないからだ。つまるところ、「自分の居場所」がないのである。「生き甲斐」とは「自分の居場所」でもある。「自分の居場所」が見つかれば「生き甲斐」が発見できる。

 生涯学習の場が魅力ある薬となるには、参加者が受身でなく、参加者が主役となることである。 「あなたが主役」になれば「自分の居場所」が出来て、自分の存在意義が生れ、生き甲斐も構築される。そこでは、教える側と教わる側が対極の「側」にあるのではなく、「水平思考」の場で参加者が学びを共有するのである。

 ◇なんでもいい、あなたが培ってきた知的財産、技術、技能、特技を提供して仲間の輪を広げる
 ◇なんでもいい、あなたがやりたいことを提案し、仲間を募り、種を蒔き、育て、花を咲かせる
 ◇なんでもいい、あなたの持ち味を生かし、「あなたが主役」となり、手作りの学びの場を造る
 ◇その場は、子どもから青年、壮年、老年の世代を越えた人々の学びの場、遊びの場でもある

 こんな意図をもって市民主導で企画、立案した多様な生涯学習こそ「生き甲斐」薬として効用があるのではないだろうか。

 少子化時代の副産物として小、中学校の空き教室がある。空き教室は、今後益々増える。財政逼迫の地方自治体に生涯学習センター建設の余裕などない中で、この空き教室はまことにありがたい。歩いて行ける地域の生涯学習の場としてこれ以上の場所はない。現在、わずかではあるが、この空き教室を市民に開放して有効活用を計っている自治体がある。が、単に空き教室を市民へ開放するに留まり、積極的な活用には至ってない。縦割り行政の壁は厚いが、発想を転換して「市民教室」「社会人教室」といった生涯学習を学校の時間帯と同時進行で取り入れていくのはどうだろう。昼食時間には子どもたちと一緒に食べ、休憩時間には一緒に校庭で遊ぶ。子どもたちは、その中で人とのかかわり方を学び、高齢者はいきいきしたエネルギーを子どもたちから享受し、世代を越えた交流の中で人間の絆を育む。さらに、風化しつつある日本の風俗、習慣や伝統的文化などを次世代を担う子どもたちへ伝承していく。

 NHKのテレビ番組に「課外授業 ようこそ先輩」というのがあり、なかなか好評である。各界で活躍している人たちが、母校の小学校で教壇に立ち、自分の体験を子どもたちにぶつけるユニークな授業に、子どもたちの目はキラキラ光る。授業が終わると、さわやかな感動が子どもたちと先輩の間に共有される。テレビ番組だから、当然見せるための演出があって、丸々事実と受けとめるわけにはいかないが、学校教育の原点を垣間見た感じがする。

 近年、多発している年少者のショッキングな犯罪の背景に、家族と教育の問題が大きくかかわっている。時代の変化にともない、家族の構成は大家族(三世代)時代ら核家族(二世代)、小家族(夫妻)、さらに個族(高齢者の一人暮らし、未婚者の一人暮らし)時代へと移行しつつある。こんな家族形態の中で、子どもたちは「人とのかかわり方と生命の尊さ」を体験することなく成長する。キレる少年はこうした土壌から生れる。学校には、「教=教える」はあっても「育=育てる」がない。知識一辺倒の学校や絆の断ち切れた家族の中に「育」を期待するのはむずかしい。「育」は本来、日常生活や遊びの中のふれあいから醸成されるものである。地域社会の中で、空き教室を生涯学習の場として活用することで、新しい家族形態「地域家族」というようなものが生れ、個族を結びつける新しい絆が出来そうに思うのだが。

 「いつでも、どこでも、だれでも、自分が学びたいことが学べる」生涯学習の場として、市民が主役となり、地域の中の学校の空き教室を活用することは、一石二鳥にも三鳥にもなる。

(カルチャーねやがわ編集長)

<講評>
 高齢化社会における生涯学習の課題について筆者の体験を通して論じられており、魅力ある生涯学習プログラムとは各自の生き甲斐を構築するためのものであり、「自分の居場所」を明らかにするものであると述べている。これを実現するための1つの方法として、小・中学校の空き教室の開放を提案しており、大変興味ある問題提起であり、今後の生涯学習を考えるうえでの参考になる。

(樫原正澄 関西大学教授)