大阪湾へのALPS処理水の希釈放流について
大阪府吉村知事・大阪市松井市長の受け入れ表明の問題点
2019年9月30日
神戸商船大学名誉教授 西 川 榮 一
1 はじめに
福島第一原発事故による放射能汚染水は、多核種除去設備(略称ALPS)で放射性物質を除去処理した上でタンクに貯留しているが、その量は今も増え続けている。ALPSは大部分の放射性物質を除去できるがゼロにはできない。
とくにトリチウムは全く除去できないので汚染水濃度のままであり、全タンク平均でおよそ100万Bq/Lである。タンクに貯留されているALPS処理水には大量のトリチウムと除去しきれなかったさまざまな放射性物質が混ざっている。
東電によれば貯留量は115万トンを超え(2019年8月24日時点)、限界に近付いているという。そこで東電や国では、ALPS処理水を希釈してトリチウム濃度を60000 Bq/Lまで下げて海洋放出しようという動きが出ている。
このような国・東電の動きを受けて吉村府知事や松井大阪市長は、「自然界レベルの基準を下回っているなら」、「科学的根拠あるなら」、大阪湾への放出を認める考えを表明した。
上記アンダーラインのような放出条件で、市長や知事の提示した(1)数字的(自然科学的)安全性は確保できているのだろうか、またそれと別に、(2)社会科学的安全性、すなわち放射線被ばくのもたらす社会的経済的影響の重大性について、松井氏や吉村氏は、個人ではなく行政機関の長として、検討考慮したのだろうか。
2 トリチウム濃度60000Bq/Lに薄めたALPS処理水の希釈放流の安全性
■ (1)のうち、60000Bq/Lという濃度の安全性はどうか
2つの問題が指摘される。
1つは、60000Bq/L はトリチウムの告示基準(告示濃度限度)であるが、その設定根拠は「この濃度の水を公衆が生まれてから70歳になるまで毎日飲み続けたとき、平均線量率が法令に基づく実効線量限度(1mSv/年)に達するとして計算されて導出されたもの」とある(原子力規制庁「放射性廃棄物に対する規制について」2018年11月30日)。
この根拠は意味としては飲料水に対する濃度規制と解される。日本は飲料水のトリチウム規制はないが、外国の例をみると、オーストラリア76103、フィンランド30000、WHO 10000、スイス10000、ロシア7700、カナダ7000、アメリカ740、EUは規制値でなく監視基準だが100Bq/Lであり(資源エネルギー庁「スペシャルコンテンツで学ぶ汚染水対策」、2019年1月19日)、こんなに幅があるのでは60000で“科学的に安全”というのは大いに疑問で、にわかに受け入れ難い。実際トリチウムの健康影響については専門家の間でも多くの議論がある。
[ノート]告示基準(告示濃度限度) 原発から放射性廃棄物を放出する場合、原子力規制委員会は規則によって排出規定を設けており、液体廃棄物の場合「排水施設において、ろ過、蒸発、イオン交換樹脂法等による吸着、放射能の時間による減衰、多量の水による希釈等の方法によって排水中の放射性物質の濃度をできるだけ低下させること。この場合、排水口又は排水監視設備において排水中の放射性物質の濃度が原子力規制委員会の定める濃度限度を超えないようにすること」とし、規制委は告示によって各種放射性物質それぞれについて排出濃度限度を設定している。告示基準とはこの濃度限度を指している。
この濃度限度は、単独の被ばくが年間1mSvに達する値であるから、他の放射性物質による被ばくがあれば1をこえてしまう。そこで規則は「2種類以上の放射性物質がある場合にあっては、それらの放射性物質の濃度のそれぞれその放射性物質についての濃度限度に対する割合の和が1となるようなそれらの放射性物質の濃度」と規定している。つまり複数の要因から被曝する場合は、それらの線量率の総和が年間1mSv未満としているのである。
2つは、他の放射性物質など他の要因の問題である。60000Bq/Lはトリチウムだけの被ばくによる濃度限度であり、他の放射性物質による被ばくが重なれば、1mSv/年を超えてしまう。既述のようにALPS処理水にはトリチウム以外に、除去し切れなかった他の放射性物質も含まれている。それらの量はどうなっているのだろうか。
図1は東電のデータであるが、ALPS処理水のほとんどにさまざまな放射性物質が含まれており、とくに除去処理初期や設備に不具合が生じた時の処理水には高濃度に含まれているのがわかる。
トリチウムを告示濃度限度60000Bq/L、すなわち告示基準比1に希釈する場合、他の放射性物質による被ばくが加わるから、告示基準比総和は1を超えることは明らかで、放出は許されないことになる。
■ (1)のうち、自然界のレベルと比べてどうか。
この条件についても2つの問題点が指摘される。1つは拡散状況である。トリチウムは自然界にも存在し、天然の河川水や海水にも含まれているが、その濃度は1 Bq/Lのレベルである(宮本霧子、環境水の中のトリチウム、海生研ニュース2008年7月,pp.5-8)。放流濃度はその60000倍である。
経産省の「トリチウム水タスクフォース報告書2016年6月」には、「海洋中に放出されたトリチウムは、放出方法や放出位置にもよるが、放出地点から離れるに従い濃度は低減する。(約10km 下流では約1 桁低減、約50km 下流では約2 桁低減、約100km 下流では約3 桁低減との試算がある(海流による移流拡散のみを考慮)。)」との記述があるから、放流すればいずれ拡散して自然界レベルに達するとみているのかもしれない。
しかし大阪湾は太洋に開けた開放性海域ではない。長径60km短径30km、面積1447km2、容積440億m3、閉鎖性の強い狭い海域であり、拡散の状況は大きく異なる。放出水は十分拡散できず数百、数千Bq/Lといった濃度で紀伊水道や瀬戸内海へ移流していくだろう。
2つは希釈の条件である。希釈とは、排出口の手前で、クリーンな水と混ぜて濃度を下げるというにすぎないから、希釈しても放出される放射能の量が減るわけではない。大阪湾のような狭い閉鎖性の強い海に希釈放流する場合、トリチウムの濃度だけでなく絶対量も考慮する必要がある。また大量に要するクリーンな水をどこで調達するかが問題になる。大阪湾の海水を使うとすれば、希釈といっても意味をなさない。
3 放射能汚染の社会的影響の重大性
つぎに(2)の社会的影響の問題はどうか。
まず考慮すべきは漁業への影響であろう。表1は最近の大阪湾海面漁業の統計であるが、年間漁獲量2万トン、金額40億円の状態が続いている。海面面積当りの漁獲量は、例えば2016年では13.1トン/km2になる。大阪湾を含む瀬戸内海全体も優れた漁業の場である。
同じ年の瀬戸内海全体の海面漁業漁獲量は157,400トン、面積当りでは6.8トン/km2である。比べると大阪湾の漁獲量は瀬戸内平均の2倍近くにもなる。大阪湾では密度の高い海面漁業がいまも盛んに続けられている。
■福島県漁業は福島原発事故災害で大きな被害を受けた
表2は東日本大震災・福島原発事故災害前後の福島県海面漁業生産高の変化である。災害に見舞われた2011年の生産量は2010年と比べてわずか2〜3%、壊滅的被害であった。
7年経った2018年県内生産は15%を超えるまでに回復しているが、災害前と比べればほど遠い状態にある。そして廻船による水揚げは、2018年になっても依然減少を続けているのである。回復が進まない大きな障害の1つが風評被害である。放射能汚染がいかに深刻な影響をもたらすか、福島漁業の実情は訴えている。
■大阪湾は漁業生産の場だけではない。釣り、海水浴などさまざまな海洋スポーツ・レジャーの場としても賞用されており、それらに係るサービス産業も少なくない。「経産省・多核種除去設備等処理水の取扱いに 関する小委員会」(第14回2019年9月27日)においても、処理水のとりあつかいについては、風評被害など社会的影響の問題が主な論点になっており、海洋放出だけでなく貯蔵など処分方法の検討が必要と指摘されている。
■瀬戸内海・大阪湾の環境保全は極めて重要である。瀬戸内海環境保全特別措置法は、「瀬戸内海の環境の保全は、瀬戸内海が、我が国のみならず世界においても比類のない美しさを誇り、かつ、その自然と人々の生活及び生業並びに地域のにぎわいとが調和した自然景観と文化的景観を併せ有する景勝の地として、また、国民にとつて貴重な漁業資源の宝庫として、その恵沢を国民がひとしく享受し、後代の国民に継承すべきものであることに鑑み、瀬戸内海を、人の活動が自然に対し適切に作用することを通じて、美しい景観が形成されていること、生物の多様性及び生産性が確保されていること等その有する多面的価値及び機能が最大限に発揮された豊かな海とすることを旨として、行わなければならない。」(二条の二)との理念に立ち、瀬戸内海の環境の保全に関する基本計画をつくり、また関係府県もそれぞれの計画をつくって環境保全の施策が進められてきている。
かかる瀬戸内海・大阪湾に、放射性物質を含む排水を放出すれば、どのような社会的影響をもたらすことになるのか予測がつかない。そのような排出行為は厳に避けられるべきであるという視点に立って、その是非を判断すべきであろう。
4 吉村知事・松井市長はALPS処理水大阪湾希釈放流容認の表明を撤回すべき
東電・国は、ALPS処理水をトリチウム濃度60000Bq/Lに希釈して海洋へ放流することを検討している。この希釈放流を大阪府吉村知事、大阪市松井知事は、自然界のレベル以下なら、科学的に安全なら、大阪湾に放流してもよいと表明した。ここでは、大阪湾にこの希釈放流を行うことの問題点について検討した。
問題点をまとめると、
- リチウム60000Bq/L濃度の水の安全性にはさまざまな論議があり、またWHO、USA、EUなどの基準と比べてもはるかに高い濃度である、
- ALPS処理水には除去し切れない多種類の放射性物質が残留しており、希釈放流では、それらがトリチウムとともに放流される恐れがある、
- 狭く閉鎖性の強い大阪湾では、自然界のレベルに等しくなるような拡散は期待できず、かつその何百何千倍の濃度で瀬戸内海や紀伊水道に移流する可能性が高い、
- 放射能汚染では、風評被害など社会的影響が大きい。福島の海面漁業の被害実態をみるとその恐ろしさは明らかである。大阪湾では現在も優れた海面漁業が展開されている。大阪湾への希釈放流は風評被害を十分に考慮すべきであるし、放流水が瀬戸内海に移流すれば社会的影響はどのように広がってゆくのか計り知れない。吉村市長・松井知事は上記表明に際して、社会的影響をどのように認識しているのか言及が見られない、
- 「経産省・多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会」においても、希釈放流だけだなく、社会的影響の問題を十分に認識したうえで、ALPS処理水の処分方法は検討が必要と議論されている。
- 以上の次第で、ALPS処理水の大阪湾への希釈放流は重大な問題を孕んでいる。吉村知事・松井市長は、態度表明するについては、環境や水産関係者と十分な議論をし、また大阪湾に面する兵庫県や和歌山県、さらには瀬戸内沿岸自治体とも十分な議論を行うべきあったが、そのような議論を踏まえた形跡は見られない。そうだとすれば、大阪湾放流受け入れ表明はあまりに無責任、無思慮な行為といわざるを得ず、直ちに撤回すべきであろう。
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